「詩のコーナー2」 投稿者:tomo 投稿日:2005/06/22(Wed) 12:30 No.2344 | |
|
新しいスレッド「詩のコーナー2」を立ち上げました。 shigさんに渡さんの唄の原詩を、教えていただくこのコーナーも、今回で4つ目のスレッドになります。 ちょっと、ここで今までの復習を‥。 ○第一回目「雨の日」(No.1664) ‥高木護,リンゲルナッツ,高田豊 ○第二回目「shigさんの高田渡原詩講座」(No.1953) ‥石原吉郎,永山則夫,吉野弘 ○第三回目「詩のコーナー」(No.2208) ‥中原中也,金子光晴,草野心平 ‥ということになっていますが、これだけ長くやっていて、まだメイン・ディッシュの山之口獏が、登場してないとこところが、渋いですよね。このコーナー。
shigeさんへ。 よろしくお願いします。 |
| Re: 「詩のコーナー2」 shig - 2005/06/22(Wed) 21:45 No.2349 | |
|
|
いやいや、山之口貘さんまでやる気はありませんよ。No.2333で貘さんの本のご案内をしときましたが、このような出版状況をみれば、その必要はないでしょう。ましてや、渡さんのCDから歌詞を書き取るなんてことは誰だってできることなんですから。 ちなみに思潮社現代詩文庫では、木島始も黒田三郎、菅原克己、吉野弘、石原吉郎、三木卓など、渡さんが歌っている詩人たちはかなり入手できるんですよ。でも、高木護はなかなか入手が難しいし、木山捷平も講談社文芸文庫版全詩集が絶版になって難しくなりましたね。だから、このあたりはしっかりやるつもりですよ。 ただ、これまでのように、原詩・歌詞の並列は、スペース面から考えてやめたほうがいいかもしれません。原詩のみにしましょうか。アルバム『日本に来た外国詩』をみてそう思いましたね。そんなことを考えています。 話は貘さんに戻りますが、『山之口貘沖縄随筆集』(平凡社)はぜひ読んでほしいですね。40年振りに故郷沖縄に帰って、そのあまりの変貌ぶりに愕然とする様子には……、ただただ泣けます。そして、沖縄を想う詩編も素晴らしい。 |
| Re: 「詩のコーナー2」 飛び入り - 2005/06/23(Thu) 00:38 No.2350 | |
|
|
誰か女房になつてやる奴はゐないか
っていう佐藤春夫の詩も好きです。 こんなことを言わしめるほど、いい人だったんでしょうね。きっと。 |
| Re: 「詩のコーナー2」 shig - 2005/06/23(Thu) 21:27 No.2355 | |
|
|
むっ……、どこからか、素晴らしい飛び入りさんがやって来ましたね。それは、貘さんの処女詩集『思弁の苑』(1938年)のために佐藤春夫が書いた序詩のことですね。渡さんとは関係ないですけど、ここでやっちゃいましょう。この詩は、今いろいろある貘さんの詩集には入っていないんですから。なかなかいい展開ですな。ありがとうございます。でも、この当時の佐藤春夫は大先生、貘さんは無名の一青年だったようです。また、渡さんとはまったく関係ないですけど、貘さんの「ねずみ」っていう詩、これは凄いですよね。ゾクゾクします。
「山之口貘の詩稿に題す」 佐藤春夫
家はもたぬが正直で愛するに足る青年だ 金にはならぬらしいが詩もつくつてゐる。
南方の孤島から来て 東京でうろついてゐる。風見たいに。
その男の詩は 枝に鳴る風見たいに自然だ しみじみと生活の季節を示し 単純で深味のあるものと思ふ。
誰か女房になつてやる奴はゐないか 誰か詩集を出してやる人はゐないか |
| Re: 「詩のコーナー2」 詩のコーナーファン - 2005/06/24(Fri) 00:28 No.2359 | |
|
| ありがとうございます。 tomo - 2005/06/24(Fri) 17:57 No.2368 | |
|
|
詩のコーナーファンさんへ。 ありがとうございます。
飛び入りさんへ。shigさんへ。 「山之口貘の詩稿に題す」は「良い」ですね。佐藤春夫なんて私にとっては日本近代文学史上の人物でしかなかったんですけど、これを読んで生身の人間として感じる事ができました。作品というよりエピソードとして、ほほえましいですね。こんな序詩を処女詩集に書いてもらった山之口貘は嬉しかっただろうなあ。
shigさんへ。 今日、会社から帰ったら先日注文していた『山之口貘詩文集』(講談社文芸文庫)が届いてました。時間をかけて読みます。 でも、shigさんが「ゾクゾクします」と話されていた「ねずみ」は掲載されていませんでした。ちょっと残念。 |
| 高木護 shig - 2005/06/24(Fri) 22:58 No.2371 | |
|
|
あー、そうでしたか。ま、「ねずみ」は渡さんとは関係のない話ですから。でも、純粋に詩を読みたいんでしたら、『詩文集』ではなく、『山之口貘詩集』(思潮社現代詩文庫)をお勧めします。やはり、『詩文集』は中途半端なものでしかありません。 エー、次にまいりますよ。アルバム『渡』収録の「相子」。つらい詩ですが、いい歌です。ジプシー調の曲にしんみり聴き惚れてしまいます。ルーマニアの曲だそうですが、作曲のTaborna-Splitについて、どなたか知ってる方がおられましたら、何か書き込んで下さい、よろしくお願いします。詩は高木護。詩集『天に近い一本の木』(日本随筆家協会、1980年)収録です。刊行当時、たまたま買っておいた詩集でしたが、この中の詩を渡さんが歌うことになるとは。息子の漣さんもレコーディングしているようですが、どんな感じかな。一度聴いてみなくちゃ。
「相子」 高木護
うまれてはみたけれど わたしはぼんやりだった
人間なら 日に二食で丁度ええぞと 父はいい 人様の分まで盗ってはいけんぞと 母はいい ひもじい日々を 形見にくれた
おとなになってみたけれど わたしはやっぱりぼんやりで うまれや育ちをありのまま 履歴書に記入しては 職にさえあぶれつづけた
だけど 形見というものは ありがたいもので 父の心配と 母の心配とで わたしの日々は消えて行った
|
| Re: 「詩のコーナー2」 飛び入り - 2005/06/24(Fri) 23:00 No.2372 | |
|
|
shigさんに『むっ……』だなんて言っていただけて、最高に栄誉に感じ入ります。tomo さんとの間に他者が容喙できないような感じがあって、ついロムってしまっていましたが、貘さんの壊れてしまった初恋の話や、佐藤春夫の世話焼きじいさんみたいなこの序詩が個人的に大好きだったんで・・・。 ところで、因果は巡る糸車、渡さんがスタジオライブ&インタビューの中で語っているところによると、佐藤春夫は渡さんの父上の詩も絶賛していたとのことです。ところが、父上はき○いだった、で、詩壇から抜けた・・・と語っておられます。なかなか、いろんな意味でおもしろいものですね。波長が合う、合わないというのは説明のつかないことですが。 |
| 「相子」 tomo - 2005/06/25(Sat) 23:13 No.2379 | |
|
|
DVD「タカダワタル的」に「高田渡、自ら曲を語る。」という渡さんの文章が寄せられています。 その中で渡さんは「相子」について「言っとくけど、これは女の名前じゃないよ。ジャンケンのアイコのように無し無しにしましょうってこと。」 ‥って語られています。知らなかった。てっきり、女の名前と思ってました。 これを「ジャンケンのアイコ」の意味だとすると‥‥深い。 |
| Re: 「詩のコーナー2」 りんこ - 2005/06/26(Sun) 00:12 No.2382 | |
|
|
『タカダワタル的』のDVD/DISC-2で見たのですが、『ねずみ』を歌にしなかった(できなかった?)ことについて氏は「(山之口獏は)元のリズムがすごい人じゃないですか。だからそれを歌にするのがかなり難しい。元がしっかりしすぎているでしょ・・。」と言ってますね。 |
| 高田豊 shig - 2005/06/26(Sun) 00:34 No.2383 | |
|
|
飛び入りさんへ。 渡さんのお父さんを佐藤春夫が絶賛してたという話、詩壇を抜けたという話、正直のところ、ちょっとオーバーな話のように思います。佐藤春夫の短文「高田豊君を紹介す」によれば、渡さんのお父さん、豊氏が二十歳の頃、仲間数人で佐藤春夫に押しかけていったようですね(同じように、貘さんも詩を見てもらいに押し掛けて行ったんですね)。……確かに、佐藤春夫は見事に誉めていますね。佐藤春夫は、人を誉めるのがなかなかうまいですね。渡さんは、お父さんを心の底から誇りに思い、「詩人だった」と話していましたが、出版社から詩集を出してもらえるような詩人ではなかったように思われます。また、「詩壇」というのも、今だって、あるようなないような掴みどころのないようなものですから、どうなんでしょうね。 では、渡さんのアルバム『系図』のジャケットにレイアウトされている、高田豊氏の「田舎の電車」を採録しておきます。この詩には、渡さんによる曲はつけられていないようです。
「田舎の電車」 高田豊
電車は走っている 車輪の音響に促されて 無意識に走っている 私は後に凭れ掛って瞑目している 私は行先を考えてはいない 運転手の目は 慣れ切っている前の レエールなんか見てはいない 唯った四、五人の客は てんでに人の足元を眺めていた 車掌は 出口にもたれて 客の風体を全部見てしまっていた 桑畑の中を電車は真直に走っていた 夕陽の影に追駈けられて電車はいつまでも走っていた (大正13年8月)
この詩に対応するかのように、『系図』のジャケットの対面には渡さんの「影」という詩がレイアウトされています。この詩も曲はつけられていないようです。今のCDには載っていないのかもしれませんので、ちょっと長くなりますが、一気にやっちゃいましょうか。
「影」 高田渡
昔 オヤジがこんな格好を していたのを想い出す 夜中、はらばいになりひとり ヒザを立て 煙草をくわえ 何やら考え込んでいた 四畳半に 五人の親子 子供に囲まれ 起きることも できず 寝ることもできず ただ はらばいになり ヒザを立て 煙草をくわえ 何やら 考え込んでいた ふと眼がさめ オヤジを見つめていると ニッコリとぼくの頭に手をあてて 早く寝ろ! とやさしく 母親の声を出すのだった
ふと眼ざめてしまったボクは はらばいになり ヒザを立て 煙草をくわえ 奥さんの隣にならぶ 小さな幻をみつめている
『タカダワタル的』が発売になって、話題がいろいろ増えてきたようですね。 りんこさんへ。「ねずみ」のすごさがおわかりのようですね。でも、歌になる詩とならない詩は、どうしてもありますね。 |
| Re: 「詩のコーナー2」 りんこ - 2005/06/26(Sun) 01:38 No.2384 | |
|
|
ねずみ、はおそらく最後は粉になり消え果てたのでしょうが、わたしのなかで氏はいつまでも生々しくあり、きっと風化しないと思います。 |
| 話題についていけない(笑) tomo - 2005/06/26(Sun) 02:02 No.2386 | |
|
|
「ねずみ」って、言われても‥。話題についていけない(笑)。 まあ「ねずみ」は老後の楽しみに取っておくとして、せっかくshigeさんに貴重な詩を載せていただいたので、軽く感想を‥。 ○「田舎の電車」 高田豊氏の詩人としての社会的位置付けなんて、まったくわかりませんが、私はこの詩は好きです。夕暮れ時の田舎の電車の空気を感じることができます。大正13年8月という時期にこの文体で表現する事は、中原中也は昭和12年で亡くなった事を考えると、かなり新しいのではないでしょうか? ○「影」 この詩を読んで、私は「系図」を思い出しました。似ていますよね。言葉ではなく、テーマが。「系図」って好きな曲なんですけど、「Best Live」にも「タカダワタル的」収録されてなくて、淋しい想いをしています。晩年はあまり唄われなかったのかなあ。「系図」。 |
| Re: 「詩のコーナー2」 飛び入り - 2005/06/26(Sun) 11:18 No.2389 | |
|
|
>shigさん う〜む。なんか“全身小説家”っぽい要素があったのかな?まあ、イソップのきつねの「あのぶどうはすっぱい」式の合理化はよくやる手ですからね。誉めてくれたがき○いだったから・・・ということにしとく。なるほど。しかし、渡さんがお父さんを誇りに思い、お兄さんの絵をジャケットに使う・・・とか、私は好きですね。胸が熱くなります。いったいぜんたい18歳で親のない子になるという運命はどんなものか!?と思います。でも、父は詩人だったというのは、彼のアイデンティティになくてはならないものだった気がしますね。「人には自恃があればいい」でしょ?読んでないのに評するのはアンフェアかもしれないけど、あれほどの真珠のような詩の数々をどこからか発掘してきては、メロディーをつけ世に提供してきた、いわば詩の鑑定眼の確かな渡さんが認めるんだから、豊氏は詩人にまちがいないと思っています。 |
| 飛び入りさんへ shig - 2005/06/26(Sun) 23:56 No.2397 | |
|
|
少し前、No.1963で、高田豊氏について、ちょっと書かせてもらっておりますので、お読みいただければと思います。私は、高田豊氏の詩は「火吹竹」「田舎の電車」の二篇しか知りません。この二篇だけをもってしても、今の著名なある詩人書く詩よりもずっと上手いと思いますし、もっと作品を読んでみたいと思います。一生の間にたった一篇の詩を書かなくたって、「ああ、詩人だ」と思える人だっています。そして、自費出版の詩集をたった一冊しか作れなくても、「うまい!」と思える人だっているのです。じつは、昨夜、我が家に詩人が焼酎を担いでやってきました。56歳。彼は、4、5冊の本を書いています。ずっと昔自費出版で詩集を一冊作っています。それでも、彼の本の奥付の著者略歴の項には、いつだって「詩人」と記しています。彼曰く「俺のかくものは、すべて詩だ。そういうつもりで文章を書いている」です。そして私自身、彼の書くものに詩を感じています。詩人とはそういうものだと思っています。 ただ、渡さん自身は、詩壇なんて、どうでもいいと思っているはずなのです。にもかかわらず、「詩壇」なんてつい言ってしまうのです。ちょっと悲しいです。できれば、そんな言葉は口してほしくなかったと思います。 |
| Re: 「詩のコーナー2」 飛び入り - 2005/06/28(Tue) 17:54 No.2411 | |
|
|
>shigさん “ちょっと悲しい”ですか? shigさんには、こうあってほしい渡さん像というのがおありなんですね。 私の場合、水臭いのかもしれませんが、全くもってno problemです。 仙人のように言われる渡さんですが、ルサンチマン的な感情はあったと思うんです。詩人として不遇に終わったおとうさんの魂を慰撫しようとする、実に人間的なあり方だという気がするからです。おできいっぱいの妹が幽霊となって氷水をかむのを見つめる兄の目線、「だけど 形見というものは ありがたいもので 父の心配と 母の心配とで わたしの日々は消えて行った」という相子のテーマにもつながるものではないでしょうか? メモリアルDVDの中で、今あたためているやりたいこととして、全編虫だけを集めたアルバムのことを語っていらっしゃいましたね。あと少し時間が欲しかったですね。私は聞きたかったです。コオロギがミシンを踏む歌の完成を見たかったです。
|
| Re: 「詩のコーナー2」 shig - 2005/06/28(Tue) 23:16 No.2413 | |
|
|
今日は本当に暑い夜です。さて、次いきましましょか。アルバム『石』収録の「夜の灯」です。『石』は渋い歌が多いですが、なかなかの名盤ですね。「夜の灯」の原詩は高木護「夜の唄」。この歌を聴いたとき、「女の股ぐらから/ふるさとのような夕陽が見えるのはなぜかい」の一節には、なぜかドキッとしたことを覚えています。もう、高木護さんの詩を歌ったものはないですよね。
「夜の唄」 高木護=詩
生まれはどこかいと問われたら あたい ──いけない女 とこたえるかい 夜の灯に しらみのようにたかって生きる 女よ ──あたい 天使になれなかったの と こたえるかい 信じては いつも失望ばかりしている 女の股ぐらから ふるさとのような夕陽が見えるのはなぜかい それでも 女のお尻が夜の灯を恋しがるのは なぜかい |
| かっこいいなあ。渡さん。 tomo - 2005/07/03(Sun) 22:54 No.2432 | |
|
|
この「夜の灯」は「吟遊詩人」,「国が認めない人間国宝」みたいな最近の世間一般の渡さんのイメージからは一番遠い曲なんだろうな。 曲はべたべたのブルースだし、詩は夜の水商売の世界だもんね。 でもね、渡さんって、最後までこの曲のみたいな下品な部分を手放さなかった人なんだよね。 最後まで「立派な人」になる事を拒否していたと思うんだ。 でね、DVD「タカダワタル的」の話になるんだけど、このDVDに「69」が入ってたのは、嬉しかったね。「色恋が無くなったら人間死んじゃうってことだ。」なんてMCの後に、得意そうに唄い始めるんだ「69」を‥。それから「スキンシップブルース」も入ってたな。 歳をとっても下品でくだらない唄を捨てなかった渡さん。かっこいいなあ。 |
| 石原吉郎 shig - 2005/07/03(Sun) 23:27 No.2433 | |
|
|
ついさっきまで、泡盛飲みながらギターを弾いていました。「すかんぽ」って歌を。そして、今日あたり、そろそろまた始めようかなと思って開いてみたら、tomoさんがいらっしていました。でもね、「下品」という言葉の捉え方がちょっと私と違うようです。「下品」じゃないでしょ。でも、そんなことは、どうでもいいのです。 アルバム『渡』収録の「さびしいといま」を取り上げます。原詩は、以前取り上げた「酒が飲みたい夜は」と同じく石原吉郎の詩「さびしいといま」です。石原吉郎といえば、どうしたってラーゲリです。この詩はとっても不思議な詩です。もしかすると、「いったやつ」=「きいたやつ」=「おれ」なのかもしれません。
「さびしいといま」 石原吉郎=詩
さびしいと いま いったろう ひげだらけの その土塀にぴったり おしつけたその背の その すぐうしろで さびしいと いま いったろう そこだけが けものの 腹のようにあたたかく 手ばなしの影ばかりが せつなくおりかさなって いるあたりで 背なかあわせの 奇妙な にくしみのあいだで たしかに さびしいと いったやつがいて たしかに それを 聞いたやつがいるのだ いった口と 聞いた耳とのあいだで おもいもかけぬ 蓋がもちあがり 冗談のように あつい湯が ふきこぼれる あわててとびのくのは 土塀や おれの勝手だが たしかに さびしいと いったやつがいて たしかに それを 聞いたやつがいる以上 あのしいの木も とちの木も 日ぐれもみずうみも そっくりおれのものだ |
| ひとつの解釈 りんこ - 2005/07/05(Tue) 23:48 No.2436 | |
|
|
背景にあるのは、生きのこるための凄惨。 いま、ふと「さびしい」といってしまったのは自分。それを聞いたのも自分。自由の象徴としての陽だまりの中の土塀に見立てたのであろう無機質な壁にもたれ、ふと「さびしい」と漏らしたことばが、痩せこけた背をおしつけた壁に反射して空腹の肉体に、そのまま「さびしい」と響く。肉体だからいくら衰弱しているとはいえ、壁よりは暖かい。けものの腹のように、すなわち自分(獣)の腹だから。生きのこるための、納得できない妥協と迎合を手ばなしの影といい、それをすればするほど鬱積する後悔。思考と相反する生きのこるための自らの行動、すなわち奇妙なにくしみであり、それにたいして「さびしい」を繰り返す。口と耳のあいだにあるのは「まぶた」という蓋。自らの情けなさに、まぶたを押し上げとめどもなく流れる涙。極寒の地では溢れる涙さえ温かいのだ。自律できない感情の高まり。だが、ふと我にかえり、もたれかかった壁から直立すると、目に入るのは四角い景色。遠景には湖。そして、まだ生きている自分。限定された視界だが、ここから見えるしいの木もとちの木も日ぐれもみずうみも、生きているから見えるのだ・・と。 渡はこの凄惨をメジャー・コードに載せた。それこそブルージーな魂ではないか。 |
| 木山捷平 shig - 2005/07/06(Wed) 23:51 No.2439 | |
|
|
「さびしいといま」のりんこさんの解説には感動しました。涙がじわっときました。おそらく相当的を射た解釈と思われます。ありがとうございます。アルバム『系図』収録の「長屋の路地に」です。原詩は、木山捷平の「赤い着物を着た親子」です。木山捷平は、太宰治や井伏鱒二と親しく付き合った小説家ですが、詩集も2冊出しているようです。渡さんの飄々とした歌は、村上律さんの5弦バンジョーのクローハンマー・ピッキングと、細野さんのホンキートンク・ピアノをバックにしてほのぼのとしていますが、飴が売れないとやっぱり寂しい。
「赤い着物を着た親子」 木山捷平=詩
長屋の路地に 今日も飴売りがやつて来た。
赤い着物をきた 親らしいのと 子らしいのと。
親が太鼓をたたくと 子供がをどつた。 だけど 飴は一つも売れなんだ。
そいで又 二人は 向うの路地へはいつて行つた。 |
| C/4capo りんこ - 2005/07/09(Sat) 00:19 No.2447 | |
|
|
shigさん「さびしいといま」の解釈をご評価いただきありがとうございます。「長屋の路地」のkeyはEですが、系図ではC/on4capoのスリー・フィンガーズ・ピッキングでギターを弾いてますね。おそらくE/on NOcapoでは、ベースランを結構重視しているようなので、都合が悪かったのかもしれませんね。自分で弾いてみてそう思います。音自体低すぎますしね。それにしても、私たちの年代にして、長屋と紙芝居は知っていても、飴売りまでは所掌範囲外です。でも、情景が目に浮かぶから不思議です。こういうのがDejavu? |
| 黒田三郎 shig - 2005/07/10(Sun) 23:31 No.2449 | |
|
|
ついさっき『ベスト・ライブ』を聴いていましたが、「長屋の路地に」はバンジョーが入っていませんね。どちらかといえば、律さんのバンジョーが入った『系図』バージョンの方が好きです。私も昔むかし、バンジョーのクローハンンマー(フレイリング)を練習しましたが、結局ものにできませんでした。そういえば、渡さんの歌を聞いていて、さも飴売りを知っているような気分になっていましたが、私も、飴売りは知りませんね。紙芝居や飴細工屋さんはよく来ていましたが。 さて、今回は、アルバム『渡』収録の「夕暮れ」にします。原詩は黒田三郎「夕暮れ」。黒田三郎は貘さん同様、わかりやすい詩が多いですが、わかりやすいからといって、誰でも書けるものじゃありません。このレベルまで仕上げるには、並大抵のことじゃないのです。
「夕暮れ」 黒田三郎=詩
夕暮れの町で 僕は見る 自分の場所からはみ出してしまった 多くのひとびとを
夕暮れのビヤホールで 彼はひとり 一杯のジョッキをまえに 斜めに坐る
彼の目が この世の誰とも交らないところに 彼は自分の場所をえらぶ そうやってたかだか三十分か一時間
夕暮れのパチンコ屋で 彼はひとり 流行歌と騒音のなかで 半身になって立つ
彼の目が 鉄のタマだけ見ておればよい ひとつの場所を彼はえらぶ そうやってたかだか三十分か一時間
人生の夕暮れが その日の夕暮れと かさなる ほんのひととき
自分の場所からはみ出てしまった ひとびとが そこでようやく 彼の場所を見つけだす
|
| 渡さんが描いた風景画 tomo - 2005/07/21(Thu) 21:33 No.2483 | |
|
|
「夕暮れ」の原詩と歌詞を比較してみると、原詩の終わりの部分、もう少し具体的に言うと、「人生の夕暮れが‥」以降が、歌詞では削除されている事がわかります。少し言い方を変えると、原詩が「彼自身」にまでスポットが当っているのに対して、渡さんの歌詞は、「人がいる夕暮れの風景」にとどまっているような気がします。
「長屋の路地に」でも、私は同じ事を感じました。題名が示している様に、原詩は「赤い着物を着た親子」にスポットを当てようとしています。しかし、「長屋の路地に」という唄から受ける私の印象は「長屋の路地の風景」なのです。
渡さんは「人がいる風景」が好きだったのではないでしょうか? 「バーボン・ストリート・ブルース」という本の中に、高田渡写真館と題して十数枚の渡さんの写真が掲載されています。そのすべてに「人」が写されています。(正確に言うと一枚は犬ですが‥。)
「夕暮れ」も「長屋の路地に」も私には渡さんが描いた「人がいる風景画」のように思えてなりません。 |
| 夕暮れ りんこ - 2005/09/08(Thu) 01:42 No.2634 | |
|
|
この詩が描かれたのは、今から何十年も前である。 「自分の場所からはみ出してしまった多くのひとびと」とは、渡のもっともらしい歌い方に騙されてしまうと、まるで分かったような気になるのだが、詩をよく噛みしめると、読み手自身の生涯や、そのときの生活を支配している背景によって、一人ひとりに想起されるイメージがかなり違ってくるフレーズだ。 「夕暮れの町」。詩人に見えているだろう情景が、子供心に焼きついたセピア色の記憶から断片的に蘇ってくる。風呂敷、下駄、和服、学生帽、買い物かご、手ぬぐいなどがあたりまえの日常だ。 「ビール」。今のようにマイルドな幅広さなどありようもなく、キリッと苦味が鋭く尖がった大人の味だ。今、一部に扱われるような、嗜好の酒にいく前の「とりあえずビール。」ではなく、酒として堂々たる地位がある。一人で飲めるのだ。 「パチンコ」。台に向かって立ってやるものであり、左手に握り締めた何個かの玉を一つひとつ右下の小さな穴に左手の親指で送り込んでは、一個ずつ右手のレバーで弾く機械だ。だから一打ずつ玉を目で追い、考えを巡らすことができるのだ。今のようにギャンブル性の高いものではなく、「いこい」や「しんせい」でも燻らしながら、一人の至高のときを楽しめるのだ。 とにかく、すべてが手作りにほど近い。そして、いずれの場所も今とは比べものにならないくらいゆっくり時間が流れている。 しかし、「ビヤホール」や「パチンコ屋」は「自分の場所」ではない。「はみ出して」たどりつく場所でもない。いつか『そこ(自分の場所)』に落ち着きたいという願望が成就できないことを知っている「ひとびと」の、ささやかな息抜きの場所なのだ。 そういう日々を延々と繰り返し、やがて「死」を目前にして、ほんの一瞬なのだが、そこも「自分の場所」だったのだと知る。最後の「ようやく」に彼の魂の安堵を思う。 黒田の詩も、渡の歌も、ひとそのものを描いているのだ。 |
|